Report

第4回 劇場の交感作用と観客の利他性をめぐって 山崎太郎

2021.06.09

木内久美子さま、北村匡平さま

 早いもので、あっという間に第一ラウンドが終了し、自分の番が再び巡ってきました。前回の書き出しでボールのやりとり云々ということを書いたとき、私の頭にあったのは投げて打ってという野球のイメージでしたが、それが今では、自在にパスをまわしながらフィールドを駆けめぐるサッカーのイメージに変わってきています。どうやら、木内さんが見出した「3」という数字に、私の思考も感染してしまったようですね。これからも北村さんともどもトライアングルを組んで、ロング・パス、ショート・パスを取り混ぜながらの自由なボール遊びを続けていけたらと思います。

 今回の話も、まずはこの「3」という数字に絡めて、木内さんの文章に出てきた「観客」という言葉に着目するところから始めることにします。曰く、「純粋な模倣は模倣のモデルとは別の、模倣の宛先となる観客に出会えて初めて、模倣として成立する」――もちろん、木内さんがここで述べている「観客」とは、「話の聞き手」や「読者」をも含む広い意味合いを孕んでいるはずですが、まずはさしあたり狭義の「観客」、作者/演じ手というように表現者が二つに分かれ、そのため、おのずと表現の受信者が第三の存在として想定しやすくなる舞台芸術に意味を限定して、話を進めることにしましょう。
 前回のエッセイで私は――アリストテレス、福田恒存、ワーグナーの文章に導かれつつ――舞台芸術において、作り手(劇作者)/演じ手(登場人物・役者)における模倣の対象と模倣者の関係がときにひっくり返る、いわば模倣行為が相互浸透のような効果を持つという認識に辿り着いたのですが、ここに第三の存在である「観客」はどのように関わってくるのか、彼らは単に作者/役者間のあいだで取り交わされる模倣行為の観察者にすぎないのか、ということを考えてみたくなったわけです。ひょっとしたら、北村さんが書いている「批評」という行為も、観客の代弁者ということを視野に入れるならば、この問題に関わってくるのかも知れません。

 現代では観客参加型のイヴェントが多くあります。またロック音楽などのコンサートでは聴衆が総立ちになって、ペンライトを揺らしたり、シャウトしたり、手拍子をすることが演奏を成り立たせる重要な要素として最初から計算に入れられていたりもするようです。いや、こうした新しい例を出すまでもなく、大向こうから贔屓の役者に声がかかる歌舞伎など、日本の古典芸能でも舞台と観客の双方向的な交流は前提となっていますし、西洋でも、シェイクスピア劇をはじめとするルネッサンス期の張り出し舞台の構造は、役者がときにドラマの流れの外に飛び出して、観客に話しかけるような台詞を誘発するものでした。
 一方、こうした傾向をドラマそのものの現実感・信憑性を破壊する要因として徹底して斥けたのが、プロセニアムという額縁のような枠を舞台のまわりにめぐらすことで、客席との間を隔てるヨーロッパ近代の劇場で、この流れは19世紀後半の自然主義の演劇にきわまることになります。
 例えばですが、登場人物が直接客席に向かって話しかければ、そのとたん、舞台上でおきた一部始終が本当のことであるという幻想は一瞬にして消えてしまうでしょう。そうならないよう、ステージと客席の間には「第四の壁」という想定上の仕切りが設けられ、聴衆は一つの閉じられた世界を覗き見るように額縁のなかの舞台を眺めるというわけです。早くも18世紀半ば、ディドロは自らの『演劇論』のなかで「客席からあなたを隔てる一つの大きな壁を舞台前縁に想定しつつ、この壁は動かせぬものと考えて、演技しなさい」と役者に諭していますし、演出家スタニスラフスキーは「演技において、観客の反応にけっして影響されぬよう」役者を強く戒めたといいます。
 以上、お二人なら既にご存知であろう西洋演劇史の基礎知識をあえてここに書き出したのは、このような近代演劇の形態においてさえ、舞台と観客のあいだには独自の交流が成り立っていないわけはないと常日頃、感じているからです。ここからは前回に続いて、ワーグナーを例にとりながら、そのことを考えてみましょう。

 神話を題材にした音楽劇を書いたワーグナーですが、ドラマの信憑性を何よりも重んじる点において、イプセンやチェーホフら、のちの世代のリアリズム演劇の作家たちと問題意識を共有していました。自作の上演専用に建てたバイロイトの祝祭劇場において、舞台上のイリュージョンを徹底させるため、奏者の姿や譜面台の灯りが観客の視界を妨げないよう、オーケストラ・ピットに蓋をかぶせたのもそうした志向の表れですし、「無限旋律」という作曲技法が生まれた理由の一端も、幕の途中で拍手がおきて聴衆の意識が日常の現実に引き戻されるのを嫌ったことに求められるでしょう。さらに、客席に向かってアリアを歌うオペラ歌手の常套的な演技を批判したワーグナーは、稽古の場においても、客席を見ずに常に相手役に体を向けて台詞を言うよう、歌手たちに徹底して求めたのです。
 ただ、演技者から客席を遮断しようとしたワーグナーが、観客というものの存在をもっぱら受動的な立場に限定して考えていたのかというと、どうもそうではないふしがあります。
 彼の作品はしばしば、登場人物の視界から舞台上の相方の存在が消え去り、歌い手が舞台枠の向こうの広い世界に呼びかけているような趣のモノローグで締めくくられます。例えば《トリスタンとイゾルデ》の幕切れでヒロインは、亡骸となった恋人がやさしく微笑みながら天に昇ってゆく姿を幻視しつつ、繰り返し「あなたたちにはそれが見えないの?」と問いかけるのですが、「周囲の声がまったく耳に入らない」(ト書き)彼女の呼びかけの対象はまわりに立ち尽くす他の登場人物であるわけがなく、我を忘れて彼女の歌に聴き入る客席の「私たち」にほかならないのです。ワーグナーにおけるドラマは客席と舞台の境が決壊する幕切れの法悦的瞬間を目指して突き進んでゆくのだ、ゆえにこそ、それまではこの閾がけっして踏み越えられることないよう、厳然とした舞台枠が設けられているのだとさえ考えられるでしょう。
 こうした法悦の絶頂は、客席の私たちが「我」という意識を離脱し、舞台と一体化する忘我の陶酔とも言い換えられます。よく知られているように、バイロイト祝祭劇場の建設にあたってワーグナーがモデルとしたのは、ポリスの市民が年に一度、野外の円形劇場に集う古代ギリシャの演劇祭でした。ワーグナーおよびバイロイト祝祭という一大プロジェクトを礼賛する意味合いで書かれた『悲劇の誕生』のなかで、ニーチェがディオニュゾス的熱狂に駆られる観客の写し絵としてのコロス(合唱隊)の役割にギリシャ悲劇の起源を求めたことも、ワーグナーの思い描く理想の聴衆を考えるうえでヒントになるでしょう。

 もちろん、主体的に考える自己を放棄させ、全体に取り込んでしまうようなドラマへのアンチテーゼとして、異化効果の理論を打ち出したブレヒトを持ち出すまでもなく、現代に生きる私たちがワーグナーの考える聴衆像を無批判に受け入れるわけにはゆかないでしょう。
 ただ、バイロイト祝祭劇場の客席に身を置くと、ワーグナーが聴衆に求めた舞台への全的集中、水を打ったような静けさこそが、客席全体の「気」となって舞台に伝わり、歌手から鬼気迫る演唱を引き出してゆく――役者に声援や拍手を送る能動的な観客の在り方とはまた別の、舞台と客席の独自の交感がそこに成り立っていると感じることも、またたしかなのです。
 いや、バイロイトに限らず、劇場を頻繁に訪れる人なら、満場の聴衆の張りつめたような空気が役者から緊張感あふれる演技を引き出すような瞬間に何度か立ち会った経験があるでしょうし、役者や演奏家の側にしてみれば、その実感はなおさら強いでしょう。「もの言わぬ聴衆」の沈黙・静寂こそが大きな影響を演じ手の側に及ぼす――だとするならば、第四の壁にも浸透膜のような無数の穴が開いているということになります。

 ここでもう一度、演者(役者+演奏家)/観客の双方向的関係に作者を加え、3という数に戻って、相互の関係を考えてみましょう。そこで見えてくるのは、パフォーマンス芸術における贈与/利他行為が作者・演者・観客という三者のトライアングルによって成り立っているという事実です。そもそも、舞台作品は作者がそれを書き終えた時点で完結するものではなく、上演を通して初めて具体的な形が与えられ、真の誕生の時を迎えることになります。であるとすれば、作者は上演の対象となる作品をある劇団や俳優に贈りつつも、むしろ彼らから多くを受けとっていることになるでしょう。一方、演者は作品を上演する歓びを作者から与えられつつ、上演を通して作者に多くを返礼してもいる。加えて、観客に具体的な形になった作品を贈り届けながら、実は観客の反応から演じることへの意欲や勇気、さらに言うならば、新たな刺激や発想を受け取っているということになります。およそ役者や演奏家は誰しも、お客さんに自分のパフォーマンスを見て欲しいと切実に願っているはずですし、客席との交感が成り立ったあとは自分の側が贈り物を受けたのだと心の底から感じるのではないでしょうか。そもそも、よき観客の存在なくして、よき演者は育ちません。そして、さらに言うならば、よき作品はよき演者とよき観客を得て初めて成立するのです。
 現在のコロナ禍の状況において、多くの公演が中止になったり、入場人数の制限を受けたりしています。舞台の上でパフォーマンスを繰り広げつつも、空の客席やまばらになった観客を前に、どこか勝手が違うという違和感に襲われる演者も多いでしょう。また、自らの演技や演奏をyoutubeなどを通じて配信するなど、新たな努力を続けながらも、今度こそは自分と受け手のあいだには時間と空間を共有することの覚束ない本当の壁が立ちはだかっていると感じる人もいるはずです。
 いずれにしても、演じる側も観る側も、舞台を成り立たせるためには双方の存在が不可欠であることに改めて気づいたというのが今現在の状況でしょう。これを私たちはどう捉えるべきか、そのなかで新たな観客像が打ち立てられるのかどうか――そのことも、これからいろいろと考えてゆきたいと思います。

 またまた長くなり、しかも締め切りを過ぎてしまったので、ここで筆を措きます。スクリーンの中の進行が客席と完全に隔てられた映画というジャンルにおいて、観客という立場はどのように考えられるのか、一人の映画俳優が時間を隔てて自らの観客となるケース(自分の出演フィルムを見直して新たな気づきにいたる高松英郎)についてなど、北村さんにお聞きしたいこともいろいろありますが、それはまた今後、いずれ機会を見つけることにいたしましょう。